三流国だから勝てた日露戦争
2010-05-19


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先日紹介した『日露戦争兵器大事典』を読んでいるが、「何故、日本は、ロシアに勝てたのだろうか。」という点を考えながら読んでいる。

まず、太平洋戦争の日米の国力格差と、日露の国力格差は、太平洋戦争時には、日本は、ほぼ欧米先進国に背を並べる位にまで国力が強くなっていたが、日露戦争当時は、世界の3〜4流国であり、その点、大国ロシアを相手に戦争をするのは、太平洋戦争以上に無謀なことであった。

実際、初期の国民1人当たりに課せられた戦費負担は、第2次世界大戦を凌ぐ、過酷な状況であった。

ロシアは、スエズ運河を遙々横切って来たから弱いというが、それは、アメリカも同様に太平洋を渡って侵攻してくるのだから一緒。

つまり、「大国を相手に無謀な戦をしたので、日本は負けたのだ。」と巷でよく言われることは、間違いだと思う。

交戦期間2年以内であれば、日露戦争と同様の条件になる筈。

ところが、太平洋戦争では、開戦後1年強経過した昭和17年にはミッドウエイ海戦で、初めてアメリカとの総力海戦で負けて、一度も艦隊決戦で勝利することもなく、敗戦への道を歩んでいく。

その点、日露戦争は、旅順港、黄海、日本海海戦と主要な海戦について、物量・兵力のハンディをものともせず、互角もしくは圧勝していく。

これは、何故なんだろう。

私は、兵器のクオリティ及びメンツにとらわれない用兵(兵器)の戦術にあると考える。

日本海海戦の主力艦は、連合艦隊(第1艦隊)の主力は、本来は、戦艦6隻の筈が、2隻がロシア軍の機雷で沈没、戦艦は、三笠、敷島、富士、朝日の4隻に過ぎず、バルチック艦隊の戦艦7隻には遙かに及ばない。

多くの戦史研究所では、東郷元帥と、秋山参謀の優れた戦術によって勝利したとされているが、たしかに、その様な面もあるが、やはり、兵器(艦船)のクオリティと訓練、戦意の格差であると思う。

ロシア艦隊は、さすがに自国の国力を誇示する為に自国の造船所で建造した最新鋭戦艦で構成されていたが、1つ1つの技術、性能は優れていても、一国で、当時の「最先端工業技術の結晶」である戦艦を開発するとなれば、長所も短所も出てきて、特に、はるばるヨーロッパから航海してくる間に綻びが広がる。

また、当時のロシアは、重工業力は、欧米先進国と互角であったが、基礎工学、材料工学(鋼材)、火薬等の部門では、劣っていた。それでも「皇帝の軍隊」としての誇りから、自国の技術、独自性に拘り続けたのである。

特に問題なのは、強力な火力を装備する為、装甲や船体の構造設計に無理があったと言われる。集中砲火を浴びると実にあっけなく沈む。

一方、当時の日本は、初めから、自力で戦艦を建造出来る気はなく、無理だと自覚していたので、システム思考とアウトソーシングでハンディを克服しようとした。

連合艦隊は、6・6艦隊を基本としているが、それぞれの艦艇に求められる性能について、標準仕様を作り、その仕様を元にイギリスやフランスの企業に発注したのである。

これらの標準仕様を元に造船企業各社にコンペ(受注競争)を実施して、英国の各造船企業の長所、材料調達力、鋼材や設計、機関、火力、防御力等を競わせ、最高の戦艦を揃えた。

システム思考、標準仕様、アウトソーシングという20世紀後半の手法が1904年という、それよりも50年以上前に先取りされていたのである。

日露戦争は、史上初の近代国家間の総力戦で、近代兵器の登場の晴れ舞台だったので、いずれは、世界大戦の時代がやってくることを予想していた欧米先進国、軍需兵器産業ともにその戦闘の結果に注目していた。

優秀な兵器を日本に買わせて、戦争に勝ってもらうと自国の兵器が他の国にも販売出来るし、実戦性能を知る最高の機会であったから、実に手抜かりなく、日本のオーダーメイドに応えた。


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