2010-05-09
八日目の蝉の最終回、無事にみることが出来た。ラストシーンが良かった。あんな夕陽は、最近はみたことがない。
小豆島に預けられている時に、アサリ採りに祖母が夕方の海に連れていってくれた。
夕飯は、毎日、祖母がアサリ採りにいって、味噌汁の具にしたり、佃煮にするのが日常だった。
アサリ採りが終わって、大きな夕陽が海に沈むのをみながら、どうゆう訳か、「壇ノ浦の平家」、「船幽霊の話」や「極楽浄土」、昔、この浜からお坊さんが船出して、極楽に向かった話等、色々なものがたりをしてくれたことを記憶している。
祖母は、毎日、ヒヨコの様に、僕が泣いていたので、色々と慰めてくれた。
時々、従兄が小豆島の家に泊まりに来た。叔母がフランスに絵の勉強に行くというので、従兄も、預けられていた。六ヶ月位だった。従兄は、学校に行かせてもらっていたが、僕は駄目だった。祖父に気に入られていたので、放してもらえなかったのか、戸籍の問題か何かがあったのかも知れない。
フランスにいる叔母から小包が従兄の元に届けられて、エッフェル塔の模型とか、自動車の模型等を見せびらかされるをみて寂しい思いをした。
僕は、チョコレートを1個もらっただけ。しかし、これが、ブランデーチョコだったので、後で、フラフラになった。
夜には、従兄とテレビをみた。なんと子供部屋にテレビをおいてもらっていたので、ウルトラQ等を一緒にみた。
憎たらしい従兄だったが、やがて別れる時が来た。フランスから帰国した叔母が向かいに来たのだ。
叔母は、僕のことが可哀想になって、色々と気を使ってくれたが、所詮、「他人の子供」である。
従兄が、この島から出られると聞いて、どんなに羨ましかったことか。俊寛の様に足摺して悔しく、水木から坂手港に向かうバスが出た後もその後を走って追いかけたものだ。
その日の夜は、祖父も気遣って、島の料亭にご馳走を食べに連れていってくれた。島で暮らす内に、魚料理が好きになっていた。
島のあちこちに言ったが、お寺参りやお遍路はしなかった。祖父が抹香臭いことが大嫌いだったから。また、祭やその他の行事に参加させてもらえず、島の子供社会から僕は、隔離されていた。
僕は影の様な子供だった。
それから2年が過ぎて、ようやく両親のもとで暮らせる様になったが、嬉しがって、わあわあ泣いたら、父親が、「男がそんな風になくもんではない。みっともない奴だ。」と足蹴にしたので、余計、悲しくなった。
川西に帰ってきたら、島の生活とは全く違っていた。近所の子供とも打ち解けられず、ドラマで言っていた「ここには、青い空も、海も、擦り傷の様な電線があるばかり。」という台詞は良く出来ていると思う。
あんなに嫌だった島が恋しくなった。
また、いつの間にか、弟が生まれており、ずっと一緒に暮らしていた弟だけを父親は可愛がった。
映画に出ていたフェリーターミナルは、岡山に日生向けのフェリーなので、土庄港なのだろうか。僕たちが幼い時は、神戸から坂手港行きの水中翼船と、関西汽船が出ていた。
船が好きで、どんなに高速艇が揺れても酔わないし、近所の漁師に沖まで漁に連れていってもらったり、祖父と一緒に釣り船に乗って、沖合でエンジンが故障したり、色々な目にもあった。
ところで、八日目の蝉の最終回は、大人になった薫ちゃんが、子供の時に似ていないのが残念だった。しかし、安物のドラマの様に、涙の再開ではないのが面白かった。
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