先日訪問した丹後一ノ宮の籠(この)神社宮司海部氏が伝える「海部氏系図」は、「勘注系図」と共に、国宝に指定されている。「海部氏系図」は、その複製をみた限りでは、書写年代は相当古いものであると考える。
この「海部氏系図」の信憑性を保証しているのが、「勘注系図」であり、それにより、この系図の作者と成立年代が推定出来るとされている。
この「勘注系図」についてどの様に考えるべきであるのか、宝賀寿男氏は、下記のWEBで説明されている。
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一番問題なのは、勘注系図の成立年代である。この勘注系図の書写年代は、かなり後世になるということは、
「書写の時期は江戸幕府三代将軍家光の寛永年中であって、筆者は海部勝千代(第七〇代永基のこと)とのことである。」と同WEBにあり、私も、後の時代であると思う。
但し、本文の書体のみで近世期の写本であると断ずることはかなり危険を伴う。この様な貴重な系図、資料の書写作業は、臨模本、あるいは、敷き写しという作業でおこなわれた場合には、現代のコピーに匹敵する程の精緻さを有する可能性があるからである。
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私は、今回、この勘注系図について、実際に丹後資料館で拝見することができて、感謝しているが、一番の発見は、料紙の裏書きの記述に非常に興味ある問題点を発見したからである。
この勘注系図は、本来伝えられるべきものではなくて、下書きの様な物であった可能性がある。
その理由として、裏書き記述を一部であるが判読してみると、何か説話か物語本文の仮名書き文字を発見したからである。その書風は、中世後期から近世初期にかけてと推定されるが、平安朝の書風を真似たかなり教養のある書き手である可能性がある。もっと、詳しく、全文を解読する機会が与えられれば、現存する勘注の成立年代や書写に纏わる事情を推定出来るかも知れない。勘注系図のなかに見える「丹後風土記残欠」いわゆる「残欠風土記」についても何か手がかりになることが判るかも知れない。
勘注を偽書とする説があるが、私は、どうかと思う。もし偽書として制作された資料ならば、むしろもっと正式な料紙を用い、清書の形で残っている筈だが、いくら紙が貴重な時代であるといっても、この様な反古紙の裏書きとしての形で残る筈はない。
やはり、それなりに由来のある資料であると考えるべきではないのだろうか。和本学、書誌学的な精査が今一度、行われることが期待されるのである。